製作ノート

戦争中の軍隊が作戦や撤退のために山中を移動し、死者を出す事故は歴史上多くある。 日程や経路が事前に計画されて山を目指すことを登山と定義するならば、八甲田山雪中行軍遭難事件は世界の登山史上、最大最悪の事故である。

第五連隊が1902年に作成した報告書には遭難の過程が細かく書かれている。 しかし世論の非難を避けるために情報操作を行ったと思われる部分もある。私たちは2007年から取材・検証などを行い、史実を正確に追ったドキュメンタリー作品製作を目指した。


青森市・幸畑旧陸軍墓地

遭難現場の馬立場は標高732メートル。 遭難するとは想像もつかないような穏やかな場所である。 頂上には兵士の銅像が立っている。 ひとりで最後まで歩き続け、 救助隊の目印となった後藤房之助伍長である。

子息の後藤信一さんは後藤房之助伍長から当時の様子を聞いている。 最後に残った後藤伍長がなぜ歩き続けることができたのか、 意外な理由を語ってくれた。


(左)後藤房之助伍長の孫・後藤公佐さん、(右)後藤房之助伍長の子息・後藤信一さん

第五連隊が遭難していくシーンは実際に八甲田山で撮影をした。 撮影場所は八甲田山東南斜面に位置する馬立場、鳴沢、田代。 1902年1月25日、露営2日目に最も多くの犠牲者を出した鳴沢(なるさわ)。 鳴沢では遭難の同日同時刻に撮影を行い、出演者、 スタッフ全員で犠牲者に黙祷を捧げた。

吹雪のシーンはすべて八甲田で撮影したもの。 大型扇風機やコンピュータグラフィックは使用していない。 撮影の環境は過酷だった。 気温はマイナス10度から15度、 風があるとさらに体感気温は下がる。 夜になると、足もとから腰、体の芯まで冷えた。 八甲田の田茂萢岳での撮影時は気温マイナス15度、 風速15メートル、体感気温はマイナス30度だった。




八甲田の雪は水分が少なくて軽い。 機材にかけてあるカバーを超え、カメラに付着して凍り付いた。 ひと世代前のカメラだったら確実に動かなくなっていただろう。 最新型のカメラは堅牢で気温マイナス15度以下でも問題なく回り続けた。

機材は過酷な環境に耐えたが出演者やスタッフには限界があった。 靴下を二枚履いても寒く、足先の防寒に苦労をした。 発熱式の簡易カイロは靴の中では効かない。軍手はいとも簡単に凍りついた。 出演者の中には演技に集中するあまり、外套のフードを被り忘れ、 耳が凍傷になった者が複数いた。 カメラマンは指先の感覚を失って、別のカメラマンと 交代することもあった。誰もが経験したことのない寒さだった。








宮田聡監督コメント

2007年冬、青森市にある旧陸軍墓地を訪れた。 墓地は雪に覆われ、墓石が所々に頭を出している。 兵士たちは雪の中で死に、雪の中で眠っていた。 遭難現場の雪の中を歩くと、膝まではもちろんのこと、 腰まで雪の中に沈んでしまう。 体力のない私は20分ほど歩くだけで限界だった。

日が暮れ、あたりが闇になれば想像を超える寒さになる。 視界ゼロ、猛吹雪となればどうなるか。 あと少しで目的地の温泉に到達できる。 しかし天候は急変、八甲田を彷徨する運命に陥る。 2日目は食事も休息もとらないまま、 彼らは15時間も歩き続けている。 吹雪が止み、時折もたらされる希望、 そして繰り返しやって来る絶望感。 そんな彼らの思いを遭難の詳しい過程とあわせ、 映像化することを目指した。 混沌とした意識の中、彼らが見ていた光景とは・・・

生存者の証言や専門家へのインタビューを通し、 遭難の過程・原因を解説。 現代の登山においても有効な情報を伝えたい。